シンポジウム趣意書

 権力的人間観へのオールタナティヴー<格差社会>に抗して

  昨今、「勝ち組」「負け犬」といった、権力志向をむき出しにしたような言葉が飛び交い、これにまつわる言説がマスメディアを賑わしている。市場原理をてらいもな振り回したり、カネで何でも買えるとうそぶいたりする言動に、若者のあいだから羨望の声すら寄せられている。他方では、同じ若年層を中心に、フリーターやニートになったり、引きこもったりする傾向が目立っているし、さらに絶望のあまり、連れだって自殺する青年も後を絶たない。このように、いわば<権力的人間観>に代わるべきものが見えない状況が、勝者敗者を問わず広がっているかに見える。

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このような状況の背後、少なくともその一部には、「格差社会」という現実がある。この言葉は、最近の10年から15年の間に、個人のものの見方や、個人と社会の関係、社会の有り様など、人間観および社会観に関して大きな変化(社会生活上の二極化)が起こり、これが目下進行しているという論説に端を発している。例えば、山田昌弘『希望格差社会』がその論説傾向を代表するものであり、類似の主張は統計学や、経済学、教育学、政治学など、多様な分野の比較的若手の研究者たちから出されている。 

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 それらを受けて論壇や政策決定の場では、「格差社会」が表している現実とこれへの対応策をめぐって論争が起きている。典型的な考え方には以下のものがある。例えば、「格差」を不可避であって耐えなければならないものとみなし、むしろ日本では市場の自由(民活)や個人の自由をいっそう促進すべきだという立場。あるいは、正規職員/パートや、若年/中高年、男性/女性のあいだで「労働の分かち合い」を実現し、このことによって「格差」を乗りこえる方向を模索しようとする立場。あるいは、国際的な市場原理に対抗するために、家族や何らかの共同体への幻想的な依拠ではなく、国家の公共的な指導に期待を寄せるべきだとする立場。そしてこれらの立場ではそれぞれ、「自由」「平等」「愛国心・公共心」といったお馴染みの価値が拠り所にされている。  

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以上の状況をふまえて、今回のシンポジウムでは、「格差社会」言説のリアリティを検証しつつ、<権力的人間観>に代わるべき人間観を探求し、「格差社会」に対抗しうる方向を積極的に構想してみることにした。このためには、国際的な政治・経済・文化の動向をも視野に入れながら、既成の価値(とくに「平等」)に甘んじることなく、これらを改めて俎上に載せ、さらに深く問い直すことが求められるに違いない。  この種の基礎的な思索の営みを通じて、「個」の有り様、とりわけ個人の欲望と他者とのつながりに焦点を合わせることから、<脱>権力的人間観を多少なりとも説得力を持って描き出すこと、これがシンポジウムの目標である。