「不平等根絶への志向の意義と優生学の問題」の事前原稿(2005年10月16日)

――シンポジウム「権力的人間観へのオルタナティブ――<格差社会>に抗して」の報告概要――

 竹内章郎

はじめに

  このシンポについては,私を含む3人の報告者が,『2005年度唯物論研究協会 第28回総会・研究大会プログラム・レジュメ集』掲載の報告要旨原稿を互いに読んだ上で、司会者の森下直貴さんの提起する三つの論点(@格差社会把握、A権力的人間観に替る原理、Bこの原理の現実的基盤)について、報告者相互の意見の相違を確認し合う作業をやり始めていた。以下では最初に、森下さんの提起に9月22日付メールで応答した竹内の文章―――これは森下さんの提起への,報告者鈴木宗徳さんの9月18日の最初の応答への返答でもある―――を修正せずに掲げる。その後に、上記報告要旨を若干膨らませた文章を掲載する。ただし、シンポ当日(10月22日)の報告内容がこの事前原稿通りとなるかどうかは、まだ確定しておらず,発表直前までもう少し足掻きたいと思っていることを了承願いたい。また以下は,論文などではなく,内容・形式共に雑駁な文章でしかない点も御寛恕願いたい。

拝啓 森下直貴さん、鈴木宗徳さん、竹内真澄さん 鈴木さんが、かなりきっちりした応答を、それもかなり早くされたので、やや身構えてしまい返事が遅れました。結局、僕には何の進展もなかったので、簡単にですが、森下さんに提起されたことについて、本当に簡単に書きます。

@ 格差社会把握について:鈴木さんも言われるとおり、あまり3人の間で差はないでしょうが、僕は、現代帝国主義(渡辺・後藤の把握)と優生学(19世紀末のイギリスの社会帝国主義とのアナロジーで)との結びつきと、差別や格差がいわば「純化」してきたことを言うつもりです。後者は、グルントリッセの、<人格的依存(差別)関係を一般化するものとしてのブルジョア社会の貨幣や資本諸関係>といった把握を踏まえたいのですが、単純には、金にものを言わせて当然だとか、力のあるものが支配するのは当たり前、といった現代の風潮に、上記の「純化」を見出して、だからこそ、優生学的差別と現代の風潮は結びついている、といったことを言いたいのです。この@に関しては、更に「財政的には小さい場合もあるが強力な国家を内在させた市場至上主義」という、僕なりの新自由主義の定義と絡めた話もしたいと思っています。

A 対抗原理ですが、これの一番の底は、やはり従来通りの私論で、「能力の共同性」を膨らませた話しかないのですが、鈴木さんのいう、迷惑かけて悪いわけがない、という話とも共通します。もう少し言えば、どんな生命でも、人間であれば救い・豊かな生活を保障すべきで、そのためには、金や力のあるものは「我慢するのも、強制されても当然だ」といったことを、言いたいのです。当然、人間の定義が問題になりますが、この点については、最終決着がついているわけではありません。加えて、個人還元主義への対抗のために、多くの人には非難されるでしょうが、能力次元での共同性と共に、これとも区別して、集団性ないし集団主義の現代的意義を、「社会権は、市民権とは違って、集団性とそこでの個人の質を問わない方法がなければ成立しなかった」という話(『平等論哲学への道程』で若干書いたことです)をいれて、しゃべりたいとも思っています。

B 僕の発想の現実的基盤は、言われてみれば、極めて脆弱で貧弱なものでしかありません。しかし、例え少数で脆弱な基盤でしかなくとも、したがって数十年単位ではとても実現できるものではなくても、言い続けることに、意味があるというしかありません。極貧層の生活、重度障害児の生活の現場、痴呆の日常、鬱状態でのカタツムリのような歩み、ハンセン病を巡る批判と受容等々の少数者の現場しか、多分、僕の発想を裏付ける現実はないと思います。と同時に、労働階級でも<更に下に落ちる瀬戸際に、より下層に対してどういう態度をとるか>といった話、つまりは、特定領域・分野・場ではなくて、いわば「動きの中」に、現実的基盤を見出したいと思っています。そして、こうした話・現場が、第三者の次元か、家族や肉親の次元かで、相当に異なることも、ある程度はわかっているつもりですが、第三者的語り口が家族や肉親の次元での語り口と矛盾をきたすこと自体やこの点の自覚も、大切なことだと位置づけたいと思っています。

不平等根絶への志向の意義と優生学の問題

T 格差・差別・不平等の長い長い歴史を無視すべきでない

 「権力的人間観へのオールタナティヴ―――<格差社会>に抗して」のシンポジストに指名され,私は「高度成長期の日本マルクス主義における平等論の不活性について」(東京唯物論研究会編『マルクス主義思想 どこからどこへ』時潮社,1992年所収)を書いたことを思い出していた。この表題の通りの拙論では,世間一般の思惑とも異なり,マルクス主義においてすら,平等−不平等問題が,戦後日本,特に高度成長期以降は看過されがちだったことを指摘した。それはまた,いわば近代主義化したマルクス主義が,長らく能力主義的な格差・不平等を真には問うてこなかった点を問題視するものでもあった。

 10年以上も前に書いた自らの原稿を思い出したのには,私からすれば,客観的な理由があったように思われる。それは、2005年半ばの現在,確信犯的新自由主義者やそのシンパを除けば,バブル崩壊以降の先進国内部での格差・不平等の非難自体は,むしろ活性化している状況があることに関連している。そうした非難には、『希望格差社会』(山田昌弘,筑摩書房)に典型的な、心理主義的問題への傾斜(希望や欲求次元に傾斜した問い)や新自由主型格差容認と親しい自立論(個人主義化を自明とする議論)等々の問題作が多いとはいえ,また現代帝国主義論を無視しているとはいえ,多国籍企業化による日本内部での格差・不平等の拡大が一応は把握されている。問題は、これら非難の大半が,10数年来の新自由主義的な格差・不平等の拡大という現象を論う―――しかも新自由主義の本質は捉え損ねたままか,看過したままの論い―――のみで、過去の格差・不平等を無視しがちなところにある。

 実際は,中教審の四六答申等々を代表とするの能力主義花盛りの高度成長期以降はもちろん、生まれによる差別の形式的撤廃と引き換えの能力次第なる原理を掲げた資本制近代,名望家や「富と教養の世界」の住人=市民により成立する市民社会の時代以降も,また近代主義自身が,更には古代以来の<定まった生活過程に従えない者は排除すべきだ>―――プラトン『国家』の中にある発言―――といった優生学自体もが,現在の格差・不平等の拡大とそれらの新自由主義的(=国家を内在させた市場至上主義的)で個人還元主義的な自己責任論に繋がっており,新自由主義的格差・不平等とその容認も,こうした歴史的経緯抜きには,正確には捉えられないはずである。

  例えば,社会保障制度の現在の後退・改悪による不平等―――権力的人間観の一具体化!―――について言えば,その改悪等は,没歴史的で無前提な単なる新自由主義的改悪―――これは現実ではない―――だけがもたらしたのではないことは、直ちに判る。社会保障の現在の改悪等は,1950年代以降の国家・自治体財政による国民生活支援が,資本の蓄積支援とそのドリップ効果を目途とした,欧州福祉国家と比較すれば間接的で企業社会的なものでしかなく,国民生活への直接的な社会保障中心の社会政策的支援が脆弱だったことに,大きく規定されている―――この脆弱さが遡り得る歴史的事情に規定され,更にその底に優生学がある。なお,この戦後日本の社会保障把握につき,後藤道夫「最低生活保障と労働市場」を参照。この論文を所収した,後藤・中西新太郎・吉崎祥司・小池直人・竹内共著『平等主義が福祉をすくう――脱≪自己責任=格差社会≫の理論』(青木書店)は10月に新刊!―――。そして,そうした歴史的経緯がまた,新自由主義によって「上手く」強化されて―――この「上手く」強化の分析が私にはまだ出来ていない―――,≪不平等の馴化=純化≫(後述)という現在に至ったのである。

 にも拘わらずこうした歴史的経緯を,現在の多くの格差・不平等非難は看過しており,そのためもあり,真に平等を目指す議論には殆ど至っていない。そうした現在の多くの格差・不平等非難は,<格差・不平等を本来的には肯定しようとする支配的思想=支配者の思想を背後から強化する思想であり,例えば国内格差是正のために必要だとして,戦争態勢―――憲法改正賛成から軍需産業・民間軍事会社肯定にまで至る―――に本格的に荷担していく,第一次大戦前と同じような「社民的」思想の温床になる,なりつつある>,とすら思える。

U 優生学的問題提起をしたい:≪不平等の馴化=純化≫論の提起

 ちなみに,格差・不平等問題の歴史的存続を捉え真の平等(格差排除・差別廃棄)を目指すための一助として,今回の報告で私が強調したいのは,プラトンやアリストテレス以来現在まで,装いや内容を新たにしつつも連綿と続く優生学であり,これを批判する問題設定である。それは,歴史のカマドとしての市民社会の位置づけ(マルクス『ドイツ・イデオロギー』)とのアナロジーで言うと,優生学に典型的な格差・不平等問題を歴史のカマドとして位置づける,という問題設定でもある。この問題設定が必要なのは,社会全般の格差・不平等の下方移譲による存続・強化といった事態において優生学が大きな役割を果たしている,という歴史的事実が21世紀の現在も多く確認され,優生学自体が様々な制度変更の中でも存続・強化されているからである―――障害者等の弱者の日常的排除,通常の児童虐待の相当部分を占める障害児虐待等々―――。つまり,優生学に関わるこれら下方移譲された格差・不平等や差別抜きには,社会全般の格差・不平等の本当の姿は語れないと,私が考えるからだが,優生学的問題設定が必要な理由は,下記のように,更にまだある。

 その理由とは,現在の格差社会肯定論や権力的人間観全般に該当することであり,また多くの格差・不平等非難論からは脱落しがちなことだが,現在の露骨な格差肯定や権力的人間観が、≪格差・差別・不平等の馴化としての純化,もしくは純化としての馴化≫とでも言うべき,優生学自体に親近性のある特質を持っている,ということである―――逆にこの特質を把握しえない既存の格差非難論には問題がある―――。以下で簡略に≪不平等の馴化=純化≫論と表示するこの規定が示すことは、まずは,現在の権力的人間観―――何の留保も条件もつけず,<金の力や権力次第で事が決ったり,能力のある奴が威張り,ない奴が縮こまるのは当然だ>等々とする人間観―――の「下品」で露骨な表現自体が,格差・不平等の肯定を赤裸々に示している,ということであり、そこに,既にかの≪不平等の馴化=純化≫が見られる。しかし更に,大きくはフーコー的「牧人権力」にその震源がある―――この震源の議論は割愛―――この≪不平等の馴化=純化≫には,次の二側面があるよう思われる。

 第一は、上記『希望格差社会』等々が高度成長期の能力主義時代には格差・差別はなかったか,もしくは大した問題ではなかったかの如き筆致を示すことに典型的なことである。それは、ここ10年くらいの格差・不平等があまりにも酷いから,それより以前の格差・不平等に国民[の記憶]が「牧人権力」に馴れ(馴らされ)、それらはもはや格差でも不平等でもなかったかの如くに扱われ、現在の純化された格差・不平等のみを、「格差・不平等」とすることである。こうしたことが、格差・不平等の震源の看過に繋がったり、現在の≪不平等の馴化=純化≫は過去の格差・不平等とは関係がないかの如き感覚すら生む。加えて,純化された不平等に更に馴化されることすら生じる。そうした場合には,例えば知的障害者の事実上の殺害といった優生学的差別さえ,「仕方ないとする」格差・不平等のある種の完成形態―――本稿末掲載の拙稿を参照―――すらも生まれる。

 第二は、近代主義に纏わりつく「人格の無限(=夢幻)の発展論」、『資本論』の応時の大工業論の一部が誤って普遍化され教育的営為全般に拡大された「全面発達論」、更には,近代主義的な道徳的やさしさ論や単純に能力と分断された人格・道徳性論、抽象的な児童尊重論等々に,現実の能力主義的格差・不平等の緩和を誤魔化し的に期待してきた問題に関わる。つまり,かの人格の無限発展論等々が,現実の能力主義や激しい競争主義の中で、いわばメッキが剥げるように剥がれて,ついに現在,剥き出しの,従って≪純化=馴化された不平等≫が登場し,更にこの不平等に馴らされて,<金・力で得られないものは何もない>といった権力的人間観言説がピュアな「善きもの(誤魔化しのない言説)」として登場していることである。こうしたことは,事実上,近代資本主義初期からもあったことだろう。

 例えばロック『政府二論』が,単純な資本主義的所有のみならず植民地主義的所有をも肯定しつつ―――このロックへの批判を扱ったカントを論じた平子友長「カント『永遠平和のために』のアクチュアリティ――ヨーロッパ帝国主義批判の書として」(近刊の東京唯物論研究会編『唯物論』第79号に所収)を参照―――,同時に道徳主義的に<他人にも十分残す限りの私有制の肯定だ>と主張したことについて,このロックの道徳主義的私有制緩和論が、『政府二論』自体において事実上すぐに剥がれ落ち、その道徳主義的誤魔化しが暴露されたことがある。現在では,道徳主義的天蓋一切抜きの≪純化=馴化された不平等≫が跋扈して,例えば知的障害者の事実上の殺害といった優生学的差別さえ,心性的には「当然だとする」格差・不平等のある種の完成形態―――本稿末掲載の拙稿を参照―――すら生じている。

 もとより優生学だけで,格差・不平等の解決の道筋が示せる訳ではないが,優生学的問題の提示は,上記の≪不平等の馴化=純化≫という全般的傾向への対抗に意味があるだけでなく、時々の個々の格差・不平等に真に現実的に対抗する上でも,大きな役割を果たす―――直ちに現状変革に結び付く抵抗ではない場合が多いにせよ―――。例えば, 胎児条項挿入を目論んだ70年代初頭からの優生保護法改悪論に,小なりといえども,強固に反対し続けた必ずしも大衆化した訳でもない障害者団体の運動が,優生学的な胎児診断の行政的導入を,今も阻止し続けている現実がある。ちなみに優生学の問題などは先刻承知だ,と思う人も多かろうが,果たしてそうか? 例えばナチや人種差別と結合した優生学のみを考えたり――事実は,ナチ以前の民族衛生学等としての優生学や人種差別を批判する混血主義の優生学もある等々―――,社会保障・福祉を優生学とは無縁と考えること―――事実は,福祉国家スウェーデンの優生学的強制断種の他,ベバレッジ報告で著名なベバレッジや近年再評価されもする福祉国家論者ミュルダール等々が市民権剥奪や不妊手術と引換えの社会保障を唱えた等々―――などに加え,商業的優生学に他ならない出生前診断に基づく障害胎児処分を単なる医療とのみ考える等々の,誤った優生学把握は今も多く,これらがまた現代の格差・不平等を根底から支えている。この現実は本当に捉えられているか?―――格差解消に資するはずの現代日本の社会保障も,国民年金と厚生年金との格差を典型に優生学的差別の中にある―――。

V 対抗原理の提起:「能力の共同性」論から

 私は以上の諸論点を念頭におき,格差・不平等の単なる非難を超えて,≪不平等の馴化=純化≫を真に克服しうる現代的な平等を目指したい。そして,この平等を目指す意識は,世界の最富裕層20%が世界の総生産の86%を,中間層60%がその13%を,最貧層20%が1%を受取る(国連の2000年『人間発達報告書』)等を嚆矢とする世界的不平等への批判意識とも接続しており,だからこそ,現代日本の格差社会や権力的人間観に対抗しうる意識ともなる。加えて,アジール内に安住する論者の格差・不平等非難では,この非難の問題性といい加減さが議論自体に表出しかねない,という明確になってきた点も意識したい。

  ただ,権力的人間観に対抗しようとする私の主張の根幹は,拙著『「弱者」の哲学』(大月書店,1993年)以来の相変わらずの,しかも未だ未完の「能力の共同性」論でしかない。ちなみに,その骨子は以下。通常個人が私的所有していると観念されている能力の根源は,「当該個人の自然性と他者を含む諸環境との関係自体[共同性自体]」であり,この関係自体としての能力が,特定の制度・社会的諸関係によって諸個人に配分されてはじめて,時々の身体・生命・能力の個人による私的所有(権)が成立するにすぎない。しかもその際にも,能力の根源としての「能力の共同性」が無くなる訳ではなく,能力は身体・生命・能力の個人による私的所有(権)としてのみ存立しているのではない。

 つまり,金力や能力等々に依拠した権力的な上下関係を生じさせないようにするために,能力次元から個人還元主義を排することによって―――こうした議論の中に,個人の質を一切問わないことにより始めて可能になった点で,その出自からして市民権とは全く異なる社会権本来の姿も位置づく―――,道徳主義やその理念主義に依拠せずに,能力主義や優生学に関わる一切の格差・不平等に対抗しようとするのが,「能力の共同性」論である―――「能力の共同性」論にはケアの充実等々の他の役割もあるが―――。当日報告では,この「能力の共同性」論―――これを支持する現実的基盤はそれほどしっかりしてないが,全ての領域・場所で可能性が見出し得る論だと私は考えている―――を土台に,新自由主義把握とも関連させつつ,主に優生学に即した議論を、既述の≪不平等の馴化=純化≫を敷衍して行う予定だが,本報告の素材の多くは,既に下記の拙稿に提示してあるので,これを予め参照頂ければ幸いである―――『唯物論研究年報 10号』所収の「現代の優生学的不平等の克服のために――優生学の新たな把握に向けて」。

 

全国唯研シンポ<権力的人間観へのオルタナティブ>

「不平等根絶への志向の意義と優生学の問題」レジュメ

2005年10月22日 於;秋田経済法科大学 竹内章郎(全国唯研会員、岐阜大学)

 T 現在の格差・差別・不平等とその拡大の把握について:「批判」論者の問題点

 (1)優生学(斎藤貴男『機会不平等』は把握),資本主義,市民[社会]主義,高度成長,能力主義との接続の把握無し

 (2)新自由主義把握の欠如:現代帝国主義・多国籍企業化(→「構造改革」)・私有制自明視の批判の欠如

* 新自由主義=財政的には小さい場合もあるが強力で権力的な国家を内在させた市場至上主義:差別・抑圧も理解

 (3)心理主義(個人化ポリティックス)や結果的に強い個人とその自立の強調(=新自由主義)に至る

* 総じて、極度の個人還元主義(←新自由主義)←「健康と生命を保護するためになすことのできることが・・・・絶対的に優先性を持っているのも正しくない」、「自生的秩序[市場秩序・・・・竹内]の下にあるこの自由はまた、諸個人に自らの運についても責任を負わせる」(新自由主義の大御所ハイエクの発言)

 (4)平等概念を中心に様々な混乱や不整合や不十分さ:格差「批判」はしても平等実現へとは言わ[言え]ない

* 機会の不平等の肯定論・批判論の双方の論者における、多様な機会概念の看過:<機会の平等の実現には強大な政府による統制が必要である→機会の平等にすら反対へ(ハイエク)>⇔能力も機会として把握し得ること
* 日本マルクス主義も80年頃まで平等を本格追求せず。今の左翼リバタリアン(マルクスとノージックの共通思想なる珍妙発言も)

 U 優生学の深化拡大・大きな影響という現実とその看過について(資料参照)

(1) 社会学会創設大会、福沢諭吉、H.G.ウエルズ、G.ベル、ベバレッジ、ウェッブ夫妻、B.ショー、H.ラスキ、ミュルダール夫妻、平塚らいてふ、M.サンガー、山本宣治、安部磯雄、カウツキー、江崎玲於奈等の優生学賞揚、「英米とナチの協力」、ナチ健康政策とその優生学と現代への浸透等々

(2) 学問主義的優生学の定義、桑原武夫の優生学容認、内「外」のハンセン病者差別・公害患者差別等

(3) 戦後日本における優生学→潜在的には能力主義の跋扈の一大要因:義務学校でのIQテスト等

(4) 今の典型:滋賀サン・グループ事件、水戸アスカ事件:前者の無視と後者モデルのTV化(「聖者の行進」)の限界

(5) 優生学再定義:@遺伝決定・生物学決定(個人還元主義の極地)、A優生賞揚・劣性排除、B能力主義、C新自由主義による市場至上主義との結合(商業的優生学)

(6) 遺伝決定論の「受容」:病気・障害の受容と排除との二律背反・矛盾を生きる意義

V ≪格差・差別・不平等の馴化・純化≫としての現在の優生学的現実について

* 歴史のカマドとしての優生学(的問題設定):差別等々の下方移譲の存続、今の中・上層の受益・秩序化感覚増大
* 一層の市場化・規制緩和/不安定雇用・低賃金層増大/労使関係の個別分断化/税の累進性低下→フラット化・消費税増(所得再配分空洞化)/障害者福祉の応能負担→応益負担(市場での等価交換化)/混合医療実質化(高額・低額双方での)等→極度の私有制万歳論、未来に希望を持つ子減少(日本=30%,他国に比べ極小)/自殺者増 

(1)≪格差・差別・不平等の馴化/純化≫:露骨な表現・筆致の表面化、非人間性の常態化(例:江崎,野口,中谷,中条等々)

* 金・力次第論、健康至上主義、ジェロントホッビア(老人・「ボケ」忌避症)、高齢者医療費の若者負担不用論、「尊厳死」論、「脳死」・臓器移植論等々の実質的浸透の他、不条理事件関与者への若年層からの「死刑」自明視論等々

(2)≪格差・差別・不平等の馴化=純化≫:高度成長期等の過去の不平等捨象・自明視=不平等への馴化→純化 

(3)≪格差・差別・不平等の純化=馴化≫:抽象的ヒューマニズムや「民主主義」等のメッキ剥落=不平等の純化→馴化 

(4)「小さく無謀な」優生学批判(70年代からの出生前診断の行政的推進批判)の意義=「脆弱な基盤」からも闘える!

 W 「能力の共同性」論について:現場即応論には「アジ―ル」はないはず、社会権再興も(権利[法]の市民権化批判)

(1) 能力次元からの優生学批判として:真に徹底した個人還元主義批判の必要性の増大

* 個人に「殆ど言及しない」人間・社会論こそが個人の真の尊重へという問題構成=社会保障・社会権の充実へ

(2) 優生学批判と新自由主義批判との連続的追求への基盤として:「私有制」の本格的「規制」へ* 上記の二つの批判の間に資本主義・市民[社会]主義・高度成長・能力主義への批判を介在させる問題構成

(3) 特定の現実基盤なくとも「弱者」が支持し依拠し得る論として:重要な,だが通過駅的な新福祉国家論の具体化論へ