2003.10.25
2003年10月25日(土)~26日(日)
熊本県立大学
報告:浅野 富美枝(宮城女子学院大学)
ジェンダー・ポリティクスと「こころの時代」
豊泉 周治(群馬大学)
「適応」というポリティクス──「心の闇」と多幸な若者たち
中山 一樹(鹿児島県立短期大学)
社会化再構築時代の対抗――事実の気づき・表象による無化・身と認識の疎隔
司会:池谷 壽夫(日本福祉大学)、折出 健二(愛知教育大学)
すでに1985年の施政方針演説のなかで、当時の中曽根首相は「国民が物の時代を越えて、心の時代へと前進しようとする熱意は、教育改革への強い期待となって現れている」と述べて、臨教審で戦後の総決算を行おうとしていた。90年代に入ってから、「いじめ」や「不登校」、「凶悪な」少年犯罪の増加に対処するために、カウンセリングや「心の教育」「心のケア」が声高に叫ばれるようになった。そして2002年4月には、小・中学校の児童・生徒全員に『心のノート』が全教育活動で取り組む道徳教育の学習財として配布され、学校・教員が『心のノート』を使用しているかどうかが点検されている。『心のノート』が文部科学省に対する忠誠度をはかる踏み絵とされようとしているといっても過言ではない。
このように子どもが抱えている困難さがもっぱら子どもの「心のあり方」の問題として捉え返されている。そして、一方では「心の教育」を育むためと称して、道徳教育がカリキュラム全体に押し広げられるとともに、他方ではカウンセリング的手法や学校カウンセラーが学校教育に導入され、「心の自省」=感情の自己管理が求められている。ところがその一方では、「従来の『官』『民』という二分法では捉えきれない、新たな『公共』」概念が提起され、「互恵の精神に基づき我が国社会や国際社会が直面する様々な課題の解決に貢献しようとする、新しい『公共』の創造に主体的にかかわろうとする態度の育成」(中教審「青少年の奉仕活動・体験活動の推進方策等について」2002年7月29日)を奉仕活動を通じて行おうとしている。「国を愛する心」も「新しい『公共』を創造し、21世紀の国家・社会の形成に主体的に参画する日本人の育成」に必要な資質として求められ、その線上で教育基本法の改正が目指されている。
こうした問題布置状況を見るとき、さしあたり次のようなことが大きくは検討課題として提起されていると考えられる。
1つは、今日の子ども・青少年に見られる諸課題を「心の問題」へと回収させていくカウンセリング的手法がはらむ問題性や限界性を明らかにすることである。
カウンセリングやセラピーが、人間が抱えている課題を個人の問題へと還元するだけでなく、そこに<カウンセラー‐クライエント>という新たな人間関係を作り出していくこと、ここに問題はないのかどうかを検討する必要があろう。<カウンセラー‐クライエント>という深い人間関係に潜むポリティクスを暴くことといってもいいであろう。しかしそれと同時に、<私>と社会を繋ぐ回路を形成するという営みも忘れてはならないだろう。
2つ目は、公共性に関わる問題である。人間関係の問題を個人の問題へ還元するカウンセリング的手法と、個人を奉仕活動を通じて社会や国家へと繋ぎとめる「新たな『公共』」論に対抗して、どのような「公共性」論を構想することができるのかが問われている。言い換えれば、安易にナショナリズムに回収されない「公共性」論はどのように構想しうるのか、これが問われているといってもいいであろう。
いずれにせよ、子ども・青年の抱えている課題を「私の問題」へと自閉しないような開かれた回路を模索するとともに、ナショナリズムに絡め取られない「公共性」のあり方が求められているのではないだろうか。
第26回熊本大会のシンポジウムは、大会第1日の午後、総会に続いて行なわれ、豊泉周治さん(群馬大学)、浅野富美枝さん(宮城学院女子大学)、中山一樹さん(鹿児島県立短期大学)が報告し、池谷壽夫さん(日本福祉大学)、折出健二さん(愛知教育大学)が司会を務めた。
報告に先立って、司会者から、「『こころの時代』とポリティクス」というテーマでシンポジウムを設定した趣意が説明され、「心のノート」に代表される、国家の側から個人の心へのアプローチにいかに対抗するかという問題提起が行なわれた。
豊泉さんの報告は、「適応というポリティクス–「心の闇」と「多幸な」若者たち」と題して、「心の危機」が叫ばれる状況と一見裏腹な、「幸せ意識」の若者の間での高まりという現象を鍵に、「こころの時代」の分析を示した。「心の危機」は、80年代を通じて、企業社会システムが生活世界に浸透した結果生じた、文化的統合の危機としてとらえられる。「いまはとても幸せ、のんびり人生を楽しみたい」という若者たちの「多幸症」は、このような状況に対する、脱企業社会の方向での適応と特徴づけることができる。このような若者たちのあいだでは、家族や性的パートナーシップを軸とする従来の親密圏のあり方とも異なった、ケータイを通じた友達とのコミュニケーションに代表される個人の横のつながりが、特徴的な人間関係となる。豊泉さんは、こうした「多幸症」的なあり方に、縦型の階層的秩序に代わる社会関係の可能性を認めようとする。
「ジェンダー・ポリティクスと「こころの時代」」と題する浅野さんの報告は、社会構造に基盤をもつ事態を「こころ」に押しつけて解消しようとする動きに含まれる問題は、「パーソナル・イズ・ポリティカル」という言葉でフェミニズムがとらえてきたものに他ならず、「こころの時代」はフェミニズムに対する攻撃と同時進行しているという認識から出発する。この観点から問題の焦点として浮かび上がるのは、親密圏のあり方である。この間の、男女共同参画の施策に対する右からの攻撃は、公的領域における男女の平等については黙認しながら、私的領域における性役割の問題に集中するというかたちをとっているが、現在のフェミニズムにとっては、私的領域における、いわば「愛」の名による抑圧を、人権や正義といった公的な領域の規範に接続し、政治の問題として現われさせることが課題である。男女共同参画に対するバックラッシュを「普通の」若者や女性が受け入れる土壌は、天皇制や企業社会と癒着した親密圏、とりわけ家族のあり方がもつ「こころ」にたいする暴力性によって培われていると浅野さんは指摘する。
中山さんは、「社会化再構築時代の対抗–事実の気づき・表象による無化・身と認識の疎隔」と題して報告した。浅野さんの報告が、「多幸症」的な適応の方策が誰にでもとれるわけではないことを、親密圏における抑圧的な力の作用をより強く受けている女性の側から明らかにしたとすれば、中山さんの報告は、「多幸症」というかたちで適応できている、「イケている」子どもたちとならんで存在する、「イケてない」子どもたちの生きる道をどうするか、と問いかけるものである。「多幸症」でやっていける子どもたちはよいとして、適応に問題を抱えている子どもたちに、大人としてどうかかわり、彼らが安心して生きていける領域、水平ないし斜めの人間関係の構築を支援するかが課題として提起された。
休憩の後、フロアーを交えた討論が行なわれた。発言が集中したのは、国家の側が進める「心の教育」に対抗する、民の側からの心や人格の教育は必要なのか、必要であるとすれば、それはどのようなものであるべきかということと、豊泉さんのいう「多幸症」は本物か、本物であるとしても、そこに何らかの積極的な可能性を見いだすことができるかということの二点であった。中山さんと浅野さんからは「心の教育」がアプローチしようとしている、心や人格の問題は確かにあり、カウンセリングを含めて、それに対するケアの必要性を認めた上で、その先に社会とのかかわりの再構築が考えられなければならないという立場が表明された。それに対して、豊泉さんは、「心の教育」に対抗するものは、「民主的な人格教育」ではなく、自我を他者との関係で規定し確立することであり、課題は意味のある他者の発見にあると指摘した。「多幸な」若者たちの「のんびり自分らしく生きる」というあり方は、意味のある他者の発見にはいたっていないとしても、企業社会の価値に代わる意味づくりの模索段階を示している。豊泉さんは、ネットをつうじていきなり公共の場につながるような関係の作り方に、新たな可能性の期待を表明した。
(文責 伊勢俊彦)
初期マルクスにおける市民社会論の出発点藤田 悟(立命館大学博士課程)
『精神現象学』における自己形成永谷 敏之 (東京農工大博士課程)
芸術の解放的力と社会的コンテクスト――音楽療法をてがかりに中河 豊(名古屋芸術大学)
崇高論の射程中村 美智太郎(一橋大学博士課程)
グローバリゼーションから軍事的帝国主義へ――「アメリカの平和」から「アメリカの戦争」へ大西 広(京都大学)
生産的労働と資本蓄積――ハインリッヒ・シュトルヒの「非物質的生産物」概念から大屋 定晴(一橋大学博士課程)
グラムシのコモン・センス論素描尾場瀬 一郎(立命館大学非常勤講師)
人間的自由と拘束の境界としての「スポーツ」市井 吉興(立命館大学非常勤講師)
板井氏は、熊本の地に活動と思考の拠点をかまえる弁護士であり、水俣病訴訟弁護団(1980~)、川辺川利水訴訟弁護団(1996~)、ハンセン病国家賠償訴訟(1998~)西日本弁護団の重責をはたしている。板井氏の活動は、いずれの訴訟においても氏の生活の拠点、その地で生じた人権侵害の事実を国家賠償訴訟として国家の作為・無作為責任を問いただす次元において解決の方途を求めるという発想につらぬかれている。報告レジュメには、鍵となる命題がいくつもちりばめられている。そのうち3点を記録したい。
1「水俣病を見たものの責任」—「気の遠くなるような範囲に広がっている水銀汚染の中で生活している人たちを見て、いったいどうしたらいいのかと考え込むばかりだった」と、公害の事実を知ってしまった弁護士の態度の取り方を語っている。そして板井氏の場合、それが水俣に法律事務所を構えさせた。
2「まず事実を、もっと事実を、さらに事実を」—「農家の大半は、何も知らされていない人たちだ。何も知らされていない人たち(賛成とも反対とも言っていない人たち)を巻き込む運動を作らなければ、たたかいに勝つことはできない」。仲間に加える運動とは事実を伝える当事者意思形成に関与することだという主張である。一般に、事実を伝える仕事にかかわる者は、それが何らかの意味において仲間に加える運動だということを肝に銘じざるをえない。ではどういう仲間に加えようとしているのかという問いが立ち上がってくる。
3「解決の姿を想像して闘いを組み立てる」—人権の確立は、裁判に勝つことに尽きるものではないという。「単に粘り強くたたかうだけでは人権の回復はできないであろう。多くの国民が自らの問題として理解して初めて人権として認められることになると思う」。
この講演の直後、ハンセン病棟に隔離されていた人びとの投宿拒否をめぐる人権侵害事件が熊本の黒川温泉で生じた。人権回復という「解決の姿を想像する」ことからすれば、闘いは完了していないことを示している。この報せを読んで推測するに、板井氏にあっては今回のような事態はすでに闘いに組み込まれていたことであり、すでに闘いをすすめているのであろうかと考えた。
なお当日配付された資料は、①『自由法曹団物語(上)』(日本評論社、2002年)、②板井「政治の責任と尊厳の回復」(『国際労働運動』第356号、2001.7)、③『牛島税理士訴訟物語』(花伝社、1998年)の抜粋である。
(文責 中山 一樹)
報告者:市原あかね(金沢大学)
戸田 清(長崎大学)
司会:尾関 周二(東京農工大学)
最初に戸田清氏(長崎大学)が同氏の近著『環境学と平和学』の視点から、世界秩序における環境的正義の問題的位置と性格について提起を行った。
氏は平和学の基本課題を直接的暴力(戦争)と構造的暴力(南北格差と貧困・性差別など、環境破壊)の廃止に設定し、そこでの「正義」の性格を「脱軍事化」、「グローバル正義」、「環境的正義」と規定する。そして三種の正義の相互連関構造を強調し、平和運動と環境運動が密接な内的連関をもち、共通課題を担うことを具体的に提起した。そこから現代グローバリゼーションにおけるアメリカの戦略、特にブッシュ政権の暴走の“文明的特徴”を、国内で寡頭支配・金権政治を強化し、世界への「民主主義の商品化」を進める「全体主義」と示唆した。これに対し氏は、環境NPO等の「脱グローバリゼーション」に拠りつつ、「資本主義世界システム」への代替案構築の緊急性に環境的正義の基本戦略があることを強調した。併せて環境的正義の運動論的展開にとって予防原則が正義内容として創出される重要性も強調された。
次に市原あかね氏(金沢大学)が戸田氏の提起を受ける形で、ローカリズムとグローバリズムの接点で環境的正義を方向づける視点から、バイオリージョナリズム論を提起した。
氏はまず、自然の「固有価値」と「必然・制約」を巡る論争的問題群を整理して、環境的正義にとっての「2つの『自然法』的課題」(「自然の価値」と「自然の限界」)を提示した。そこから自然の倫理的位置づけの多様さ故の“要請”と自然認識の多元性故の科学的認識の“要請”に基づく「自然の能動性」の“方法論的承認”の意義、及びそれを軸とする人間-自然関係の「公共圏的課題」の構築の意義を提起した。次に氏は、マルクスの非有機的身体論とハーヴェイの社会生態論から自然の階層性・環境の共同性・人間の感性的主体性を位置づけ、これらの「入れ子構造」から環境的「公共圏」の多次元性を強調した。そこから氏は、環境的正義の重要な次元として「調整様式の一つ(規範的時空構造)としてのバイオリージョン」を提起した。核心はバイオリージョンが「能動的自然と主体的感性的人間が具体的に出会う場」、この出会いを「社会的に総括する第一の場」だという点にある。そして「バイオリージョンの公共圏」の性格と課題の基本的方向を展望した。
両氏の提起が環境的正義論に新基軸を開くものだっただけに、討論が理解のための質疑応答に集中した感があるのは、止むを得ないとは言え、惜しまれた。異なる位相から照射される両者の環境的正義の内実とその異同・連関、正義のそもそも論との関係、特に身体的主体を強調する市原氏の場合現象学的身体論やベルクの風土的身体論との異同・バイオリージョンの原理性が構成する環境的正義の固有の内実、など今後に楽しみな課題を残した分科会であった。
(文責: 亀山 純生)
報告者:菅原 伸郎(元朝日新聞学芸部)
万羽 晴夫(熊本大学)
司会:渡辺 憲正(関東学院大学)
シンポジウム「『こころの時代』とポリティックス」と関連して設けられた分科会であり、万羽晴夫氏(熊本大学)の「「心のノート」――パステルカラーの軽やかな価値の押しつけ」と、菅原伸郎氏(元朝日新聞記者)の「「心のノート」の生命観」という2つの報告を基づいて、とくに「心の教育」について議論を交わした。
万羽晴夫氏は、4冊の「心のノート」それぞれの構造について細かく紹介をしながら、「心の教育」の路線が、国民を分断し、かつ統合していくための、「一人ひとりの内面の国家による支配の試み」にあることを指摘した。「心のノート」は、首位的教科書に位置づけられており、道徳教育の日常化をめざしたものであるとされる。菅原伸郎氏は,「心のノート」の生命観と神道の世界との親近性、良心論における「自省」の欠如を示した上で、しばしば言われる「畏敬の念」について、ルソーや清沢満之らによりながら、むしろ「畏れるな」ということの大切さを積極的に提示した。今回、文科省が「心のノート」を作成した背景には、「道徳教育は何をやっているのか」という批判や教育する側の無力感という要因があった、という指摘は、注目に値するものであった。
討論は、1)「心」とは何か、2)「心のノート」の評価、3)教育基本法「改正」等ナショナリズムの動きとの関連、という論点を設定して行なった。シンポジウムの報告者全員が参加していて、さながらシンポジウムの続きのような議論になり、盛り上がったと言ってよい。詳細は割愛するほかないが、いくつかの問題提起的発言を記録しておこう。1)「心の教育」においては、「心」が道徳に限定されているのが問題だ。2)「心の教育」あるいは道徳教育は批判するにしても、人格形成に関わる教育は必要だろう。これらはどのように異なるのか。結局、教育では何を教えるのか。3)そもそも道徳教育は必要か。これには、「戦争や労働に関しては事実を伝えるだけでよい」、「平和などは道徳の問題として教える必要がある」、「自由と平等などの価値についての判断」や「道徳を首位教育にしてはいけない」などの発言があった。4)「心のノート」はどこまでナショナリズムと結びつくのか。――「心の教育」に対抗していかなる「教育」が求められるのか、これが一貫して問われていたようにも感じられる。
(文責:渡辺憲正)
報告者:鈴木 宗徳(南山大学)
竹内 真澄(桃山学院大学)
司会:加藤 恒男(中京女子大学)
報告は大会プログラム・レジュメに載ったものをさらに充実させて配布ペーパーに基づいて行われた。
竹内真澄氏は、チョムスキーらの書『冷戦と大学』の内容を基に自己の見解を交えて以下のように報告。アメリカの社会科学研究の特徴を時代的には19-20世紀、地域的には西洋と非西洋、分野としては政治学、経済学、社会学に基礎が作られたと捉え、それがさまざまな再分化と分断生んだと捉えるとともに、地域研究にとって決定的な分断となったのが、非西洋研究が人類学とオリエンタルスタディズに担われた点であったと見る。これらが戦後は、ヨーロッパを(失敗、崩壊として)無視する傲慢なアメリカとなって反共主義と結合し、ソ連・中国研究が台頭、地域研究の革新、「普遍的包括的な社会と人間行動の科学」が提唱された。こうして冷戦と世界支配のための研究が行われたが、60年代以降、抵抗がなされ限界を超える努力がおこなわれて世界システム論の前提となる新しい動き、および、黒人、エスニック、女性、労働史研究が登場し、さらには政府批判の安全性が生まれ、さらに、社会史、アメリカ史の書き換えが進行し、コンピューター化の下で企業依存傾向が進行していると見る。さらに、アメリカ型社会科学の日本への影響は 相対的に親米派が少ないことと日米社会科学の協力体制が弱い(韓国ではアメリカ一辺倒)ことが特徴と見ている。
鈴木宗徳氏は竹内氏が触れた1968年の社会学の「方法論争」に関わる形で、「アドルノ+ハーバーマス」対「ポッパー+アルバート」の実証主義論争をハーバーマスとマルクーゼの主張を通して紹介、テクノクラシー批判としての科学技術批判、科学技術批判としての実証主義批判と意義付け、ウェーバーを評価する観点も示しつつ、自然科学批判のみならず人文社会科学の批判の必要性を結論とした。
質疑応答は、ハーバーマス評価をめぐる点、アメリカ社会科学をめぐる点および日本の社会科学をめぐる点に分かれたが、ハーバーマスの問題点、アメリカの研究体制の力強さ、日本の科学と文学という文脈や哲学における民衆との接点などの論点がしめされ、さらに韓国の社会科学の状況も紹介された。「国立大学解体」へ進む現状の問題解明につながる点もあったと思う。
(文責:加藤 恒男)
テーマ:「もやい直し」と水俣の環境再生、被害者のノーマライゼーション
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