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研究大会

2020.11.07

第43回総会・研究大会(オンライン)

日程:2020年11月7日(土)~8日(日)
会場:オンライン開催

第1日  2020年11月7日(土)

●テーマ別セッション≪環境思想部会≫
(10:00~12:00)

今こそ、資本主義について話そう

趣旨

 この間のコロナ禍で様々な問題が生じ、また、指摘されてましたが、それらを突き詰めていくと、どこかで必ず資本主義の問題に繋がっているように思います。環境思想の立場からも、これまでしばしば、資本主義の問題を論じてきたように思いますが、今回のコロナの経験では、それらがより先鋭化した仕方で目の前に展開しているように思えてなりません。その意味では、「疎外」や「物象化」、というタームに頼るだけでなく、そこからもう一歩踏み込んだ議論を通じて、資本主義の正体を独自に暴くヒントが少しでも得られれば、本企画は大成功です。無論、コロナ禍の経験のみをテーマにしているわけではありませんので、参加者には現実の種々の問題と絡めて資本主義をどの様に理解しているのかを積極的にご発言頂ければ幸いです。

形態:座談会(話題提供者数名を準備)
司会:片山善博・穴見愼一

●総会
(13:00~14:00)

●シンポジウム
(14:30~18:00)

分断と孤立化を超える思想

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 いま、われわれは多くの矛盾を抱える困難な状況の中で、先の見えない不安を抱えながらかすかな希望の芽を求めて苦闘している。もちろん、それは直近では新型コロナウイルスの世界的な感染拡大と、それにともなうグローバル資本主義の急速な悪化が引き起こした経済的困難によるものであろう。だが、すでに E. トッドはじめ多数の識者が指摘しているように、今回のコロナ禍はこれまでと全く異なる困難を引き起こしたというよりも、それ以前からわれわれを苦しめてきた諸矛盾を凝縮して表面化させた、と見るべきだろう。

 トランプ米大統領を筆頭に、パンデミック状況においてさえ自らの政治的利益のために他国を非難して対立と分断をあおる政治家たちの姿は、確かにわれわれを唖然とさせた。だが、トランプ政権誕生やブレグジットをはじめ近年の世界的な政治状況において、すでにわれわれは政治家たちのこうした姿勢をうんざりするほど目にしていたはずだ。われわれはただ、「この期に及んでこの言動をするのか」と唖然としたにすぎまい。「コロナウイルスなどたちの悪い風邪のようなものだ」と言い放って感染拡大防止よりも経済的利益を優先する政治的発言が国内外で横行したのも同類である。日本での特別給付金をめぐる顛末など、国民の生活保障に対する日本政府の長年にわたる出し惜しみの最たるものと言えよう。

 当然ながら、問題は政治状況だけではない。いよいよ顕在化しつつある経済的な困窮の広がりは、今後、非正規雇用者を中心とする生活困難層を直撃するだろう。だが、これもグローバル資本主義の支配層が自らの失敗を世界規模で民衆に押しつけたリーマン・ショックの「増補第 2 版」となりそうである。もしそうなら、「初版」後における経済格差と貧困の拡大が、「オキュパイ・ウォールストリート」や「年越し派遣村」などの連帯の可能性をはらみつつも、排他主義や権威主義的ポピュリズムへと吸い寄せられていった経緯も繰り返される恐れがないとは言えまい。すでにコロナ禍のもとで、健康不安と経済的困難にさらされる人々の間で、不安と危険を少しでも増大させそうな他者に対しての敵意が広がる気配もうかがえる。医療従事者への嫌がらせやいわゆる「自粛警察」、域外(「県外」であれ「国外」であれ)への排他感情、世代間対立など、その兆候は各所に見てとれよう。実際、経済生活全般の危機に対して競争至上主義の下で個人的な対処を強いられるなか、これらの感情的反応が生まれるのはある意味で無理からぬ帰結と言える。さらに「新型コロナウイルスへの対処」という、最も科学的事実が重視されるべき問題についてさえ陰謀論を含むフェイクが飛び交い、人々が「都合の良い真実」にしがみつく「ポスト・トゥルース」状況は、対話を拒み分断と敵意をあおる権威主義の格好の培養地であろう。本来であれば、人々の間でリスク判断の大きな乖離が生じた際の調整は最重要な政治的課題の一つであるはずだ。だが、政治家たちがそうした課題をかなぐり捨て、建前としてでさえ「国民全体の包摂」を語らなくなり、企業でも大学でも、様々な場面で対話そのものが成り立たず困惑するようになってから、すでに久しくはないだろうか。

 こうしてみれば、現在の状況の背後には、すでに多年にわたって深刻化してきた社会的矛盾が潜んでおり、コロナ禍はそれを凝縮して表面化させたのだと言えよう。グローバル資本主義の拡大と福祉国家的統合の解体、経済的格差の激化と経済的貧困の増大のもとで、社会関係や社会文化的経験の貧困までもが拡大している。特に経験の貧困、経験を基盤とする様々なリテラシーの貧困は、自らの困難を他者と共有し連帯を生み出す回路を失ってしまうという点で深刻な問題であろう。そこに輪をかけて、新自由主義的な思考様式は人々に「社会的な危機に対して個人的に対処するように」圧力をかけ、孤立化と分断を推し進めている。いわゆる「コロナ DV」や、外出「自粛」による単身高齢者の健康悪化の懸念などは、コロナ禍のもとで日本における孤立化と分断の様相が凝縮されたその端的な表れであろう。こうした例からもうかがえるように、今回の事態が示したのは、まさに分断と孤立化の状況が待ったなしのところにまで深まっている事実に他ならない。

 しかし同時に、今回のコロナ禍は、この分断と孤立化の克服が真に求められていることをも凝縮して示しているように思われる。実際、パンデミックへの対応には明らかに国際的な連帯こそが不可欠であるし、そのために政治的・経済的利益をある程度犠牲にする必要があることも言を俟たない(グローバル製薬会社がワクチンを開発したとしても、それを独占して利益を追求すれば結局は自分の首を絞めることとなろう)。また、アメリカでは大統領予備選を撤退したサンダース候補の政策的主張(特に大学無償化の主張)が、むしろコロナ禍による経済危機のもとで見直され、バイデン候補の政策に取り入れられる動きもあると報じられている。さらに現在もなお継続している反人種差別デモは、コロナ禍が表面化させた長年にわたる分断と孤立化に対し、再度挙げられた抗議の声とも見られよう。また日本でも今年前半の、特別給付金や検察庁法改正をめぐっての「twitter デモ」と呼ばれる動向などは、「素人は口を出すな」という威圧に抗し、経験とリテラシーの壁を越えて連帯する可能性を垣間見せるものではなかっただろうか。そしてこうしたさまざまな動きもまた、コロナ禍で急に発生したものではなく、上述したリーマン・ショック以降のアメリカにおける若者の運動や2013 年以来の「Black Lives Matter」運動、日本での青年ユニオンや SEALs などの新たな連帯を模索するこれまでの運動の延長上に現れた現象でもあろう。その意味では、分断と孤立化を克服しようとする模索もまた、すでに多年にわたって、さまざまな場で進められ引き継がれてきたと言える。

 だがそれだけに、すでにこれまでにも、こうした動きが右派ポピュリズムのバックラッシュに直面し、厳しい状況へと追い込まれてきたことにわれわれは留意しなければならない。まさにその象徴が冒頭で触れたトランプ政権とブレグジットではなかっただろうか。だとするなら、現在もまた、分断と孤立化を克服し連帯を生み出す可能性と、対立と敵意をあおる権威主義に引き寄せられ分断と孤立化を深めてしまう可能性、この両者の分水嶺に立っているのである。だからこそ今、われわれはあらためて、分断と孤立化を超えるために何が必要なのか、どこにどのような基盤を構想しうるのか、思想的に深くとらえなおさなければならない。

 今大会のシンポジウムで問うのは、分断と孤立化を超える可能性と、その思想的な深い基盤である。報告者として、まず児島功和氏には、現代日本の大学で働く研究者が置かれている分断と孤立化の状況、そしてそこから考えられる連帯の可能性についてご報告いただく予定である。ついで工藤律子氏には、市民政治や「社会的連帯経済」の広がりなど、スペインでの新たな試みの事例を通じ、分断と孤立化を超える具体的な取り組みについてのご報告をお願いしたい。そして小山花子氏には、ハンナ・アーレントにおける「世界の共有」や「ともにあること togetherness」の概念を手がかりに、経験と対話の可能性を通じた新たな連帯の思想的な基盤について論じていただく。

 そもそも本シンポジウムは、ウイルスの感染拡大次第で開催自体が危ぶまれる状況にあった。それでも、以上のご報告者 3 氏と、フロア(オンライン)参加者との討議を通じ、現在の分水嶺を新たな連帯へと踏み越えるためのささやかな一歩を刻もうとするものである。この状況下で本シンポジウムにご参加いただける諸氏による、白熱した議論を願ってやまない。

大学教員は自身の「困難」を共有できているのか?
 ――大学教員の労働実態に関する研究の整理と調査から
児島功和(山梨学院大)
多様性を楽しみ、つながりで生きる
 ――つながる市民が創る「もうひとつの社会」
工藤律子(ジャーナリスト)
世界の形成を阻むものと育むもの
 ――アーレントの思想を手がかりとして考える
小山花子(盛岡大)
《司会》 橋本直人(神戸大)
はじめに

本報告では、私たち研究者(としての大学教員)の困難について、先行研究の整理および実施中の聞き取り調査から明らかにする。そして、実態把握と分析から連帯の手掛かりをつかみたいと考えている。なお、報告者自身が大学教員であることから、本報告は再帰的な試みとなり、いわゆる「当事者研究」ともいえる以上、私がどの立場から書き、報告するのかということも示したい。

この要旨では、問題設定ならびに先行研究の一部を示す。調査結果の詳細については、本報告時に明らかにする。
大学教員は自身の「困難」を共有できているのか?

分断と孤立化が問題である――このシンポジウムの趣旨はそうした社会状況への危機意識から提起されたものである。社会学者マイク・デイヴィスも、次のように新型コロナウイルス感染症によるアメリカ社会の分断状況を捉えている。

高額の保険に入り、なおかつ家で働いたり教えたりできる人たちは、自粛要請に従うかぎり快適な隔離環境にいられる。これに対して、公的部門の職員、そしてある程度の保障がなされる組合加入の労働者集団は、収入確保と命を守ることとの間で難しい選択を強いられる可能性がある。だがもっとひどいのは、数百万人にのぼる低賃金のサービス労働従事者、農場労働者、失業者、ホームレスだ。(「大疫病の年に(重田園江訳)」web ちくま、2020 年 4 月 7 日、http://www.webchikuma.jp/articles/-/2004、2020年 8 月 4 日閲覧)。

デイヴィスが示した状況は日本においてもほとんど変わらないように思われる。新型コロナウイルス感染症の拡大以降、解雇や雇止め(見込み含む)となった労働者のうち多くが非正規雇用との報道もなされている(「コロナ解雇、3 万 2 千人超に 3 日時点、非正規が6割」東京新聞、2020年7月7日、https://www.tokyo-np.co.jp/article/40689、2020 年 8 月 4 日閲覧)。こうした社会的分断はきわめて大きな問題である。

しかし、本報告で取り上げたいのは、別の分断・孤立化である。デイヴィスは「家で働いたり教えたりできる人たちは、自粛要請に従うかぎり快適な隔離環境にいられる」と述べているが、大学教員もこれに当てはまるだろう。2020 年度前期(春学期)、私を含む多くの大学教員が遠隔授業をすることになった。専任(任期なし)の教員であれば、このような状況になっても相対的に雇用が安定したままであるし、感染リスクも相対的に低い形で仕事が可能な「恵まれた立場」ではある。だが、そうであっても、大学教員の多くが分断・孤立化させられており、それによって自身の困難を語り、共有することが難しい状況に置かれているのではないだろうか。社会の分断を問題視し、連帯の重要性を主張する私たち自身がどれほど連帯できているのだろうか。大学教員もまたひとりで困難を抱え込み、コロナ禍で自宅で頭を抱えているのではないだろうか。

本報告で示すのは、大学教員自身の困難の様相であるが、具体的には働き方や規範に着目する。大学教員はその働き方においてどのような特徴があり、それゆえいかなる困難を抱えているのか、そしてそれはいかなる環境や規範によって引き起こされているのかを明らかにすることを通して、連帯の萌芽を探したい。

コロナ禍の(ある)大学教員の「労働」

私には保育園に通う子どもが 1 人いる。パートナーである妻は正規雇用として働いている。山梨にある大学に勤めているが、住まいは東京にある。3 月下旬、私は 37 度前半の微熱が下がらない状態となり、4 月中旬まで約 2 週間自宅隔離となった。新型コロナウイルス感染症を疑い、何度も国や自治体が指定する連絡先に電話をし、かかりつけの病院にも行ったが、結局 PCR 検査を受けることはできなかった。4 月中旬に症状は落ち着き、家族には何の症状も出なかったが、万が一を考えて体調不良を自覚してから子どもを保育園には行かせなかった。4 月下旬「そろそろ保育園に戻そうか…」という頃に緊急事態宣言が出されることになり、住んでいる市からも家庭保育を強く要請された。その結果、4~5 月の 2 か月間子どもを自宅で朝から晩までみることになった。感染症という性質上、誰かサポートに来てもらうということも躊躇われたため、夫婦ふたりで仕事をしながら子どもをみた。自宅仕事が出来るのは「恵まれている」と頭ではわかっていたが、想像を超えた苦しさであった。

私は遠隔授業という初めての経験で授業設計や運営を体調不良のなかで見直しながら、大学教育センター系組織の委員長としても仕事をしていた。何もかもが初めての事態ということもあり、教職員や学生と数多くのメールをやりとりするだけでなく、連絡を取るメディアも激増した(メール、ZOOM、Teams、Slack、LINE、LMS、Messenger)。「おとうちゃん」「おかあちゃん」とずっと一緒ということで子どもは大はしゃぎだったが(ありがたいことにずっと元気でいてくれた)、緊急事態宣言の最中に子どもを公園に連れ出すことも極力控えていた。だが、そうなると狭い自宅で朝から晩まで子どもの遊びに付き合うことになる。むろんその間に私は授業準備、授業、メール、学生へのフィードバック、会議、会議資料作成をし、妻と共同で家事をした。感染防止も考えて、深夜になってから 24 時間営業の店に生活必需品を購入しにいくことも度々あった。運動不足もあるのか、子どももなかなか寝てくれず、夜遅くにようやく寝てくれたあと、毎晩その寝顔を見ながら「今日もかわいかったね」と妻と話しながら「もう疲れた…」ともよく話した。6 月になり、保育園に通わせることができてから状況は一定改善したが、「平常運転」とはいえない状態が続いている(要旨執筆時点)。

この間の苦しさを整理すると、次のことは大きいと考えている。生活の時間の全てが仕事の時間、もしくは子育ての時間になったこと(仕事の時間であり子育ての時間でもある)、仕事の場所と家庭生活やそれ以外の個人生活を営む場所が全て自宅に一元化されたことがあげられる。そして、このような状況にも関わらず、私は研究を少しでも前に進めたいと日々強く思っていたが全くといっていいほど出来なかったことがある。そして、こうした苦しさをほとんど誰とも共有できなかった。これらは以前から感じていたものだが、コロナ禍によって強化された。また、私ひとりだけの問題ではなく、多くの大学教員に共通する学術界(academia)における構造的問題でもあるように思われる。

新自由主義社会の優等生としての大学教員?

社会学者で文化理論家でもあるロザリンド・ギルは、「沈黙を破る:新自由主義化する学術界の“隠された傷”(Breaking the silence: The hidden injuries of neoliberal academia)」という論文(報告者が共同で翻訳中)で、学術界における働き方を批判的に検討している。ギルによれば、学術界では再帰性が重視されるようになっているが、研究者が自身の経験や制度的環境を反省的に捉えなおすことはほとんどないという。そして、ギルは研究者を「新自由主義社会の優等生」になっているとする。労働の不安定性や断片化、多忙化に対して集合的に抵抗するのではなく、過度に競争的な環境のなかで個々人で適応してしまうという。要するに、大学教員はきわめて巧妙に分断統治されているとギルは考えているのだ。

そうであるとしてそれはなぜか。そうした状況を打開するにはどうすればいいのか。ギルの論文を含む先行研究の整理と報告者が実施中の調査から探ってみたい。

 新型コロナ危機に際し、歴史学者ユヴァル・ハラリは、それを乗り越えるためには「信頼とグローバルな連帯が不可欠」だと訴え、話題になった。「信頼」と「連帯」。それはこの 8 年、私が取材してきたスペインの市民が、不公平な社会、理不尽な世界を変えるために必要だと考えてきたこと、そのものだ。

 コロナ危機は、リーマン・ショック以上の負の衝撃をもたらした。経済学者たちはそう言う。だが、私たちの多くは、リーマン・ショックあるいはそれ以前から、既存の経済システムが人間世界をネガティブな方向へ向かわせていることを、薄々感じていたはずだ。それなのに、異なる経済の仕組みを考え、築く努力を十分にしなかった。していれば、コロナ危機にももっとうまく対応できただろう。 政治もそうだ。安倍政権が市民の幸福や利益を考えない、信頼できない政府であることは、秘密保護法に始まる一連の悪法成立や森友・加計問題などでの保身、隠蔽工作で、明らかだった。にもかかわらず、私たちはその政権に政治を任せることに甘んじてきた。その結果が、現在の支離滅裂なコロナ対策だ。

 それに対してスペインでは、多くの人がリーマン・ショックをきっかけに、既存の政治や経済、社会の仕組みに疑問を抱き、それを変えようとしてきた。市民が、政治への参加,競争ではなく人の暮らしと環境を優先する経済(社会的連帯経済)、信頼に基づく隣人ネットワークづくり、多様な人間が共に学び成長する場としての公教育を推進しようと、行動を起こしてきた。 新型コロナは、2 万 8 千人以上のスペイン人の命を奪い、失業率を 15 パーセント以上に押し上げたが、それでも市民は今、党名に社会主義を冠する社会労働者党(PSOE)と、市民運動から生まれた政党ポデモス(私たちはできる、の意)の左派連立政権が、コロナとの闘いを指揮していることを歓迎している。リーマン・ショック時に大企業・銀行の救済を優先し、国民に緊縮政策を押し付けた保守政権とは異なり、現政権は社会的弱者を切り捨てるような政策は取らないと信じるからだ。実際、現政権は、非正規雇用労働者や長期失業者などの最貧困世帯に対する最低所得保障を取り入れるなど、弱者の生活保障に力を注いでいる。

 では、スペインの市民は、どのようにして、新しい政治や経済、社会を築こうとしているのか。

 2011年5月15日に生まれた市民運動「15M(キンセ・エメ)」は、新自由主義的資本主義のグローバル化で得る自分たちの利益ばかり優先する企業や政治家(屋)にノーを突きつけ、真の民主主義の実現を訴えた。民主主義と市民の権利を保障する新たな体制を、市民の手で築こうと試みた。その流れの中で、生まれたものの一つが、市民政党だ。

 その代表格、ポデモスは、国政において、それまでの「二大政党政治」を打ち破った。スペインでは、元々、保守派の国民党(PP)と中道左派の PSOE が交代で政権を担っていたが、15M 運動以降、市民の声を反映する市民政党を創る動きが広がり、ポデモスが誕生。現在、誕生直後ほどの勢いはなくなったとはいえ、PP も PSOE も過半数が取れない今、左派連立政権という形で、遂に政府に入った。地方政治においては、バルセロナ市やバレンシア市などの大都市で、市民プラットフォーム政権が市政を担っており、小さな町や村でも普通の市民が議員となって活躍している。

 経済面では、全国で「社会的連帯経済」の枠組みの中で活動する企業や協同組合が、ここ数年、増え続けている。特に、組合員である労働者自身が資本家となって組合を運営する労働者協同組合は、2013 年以降、毎年 1000 以上、生まれているという。そうした協同組合は、組合員全員で出資し、給料や運営方針を決め、足りない資金は同じく労働者協同組合である「倫理銀行」から借り入れている。「倫理銀行」の組合員の大半は、同じ社会的連帯経済を担う人々だ。つまり、この経済の中では、「雇用主」による一方的な解雇や減給はなく、また「銀行」による不当な取り立て、貸し渋りもない。そこに参加する人・組織が話し合い、支え合うことで、皆の暮らしと環境を守っている。その経済活動や労働は、競争によって格差や分断を生み出すのではなく、つながりを通して皆が安心して暮らせる社会を築く。

 つながりでどんな人も安心して生きられる環境。それは、市民誰もが大切にされる社会のあるべき姿だろう。だから労働の場はもちろん、地域社会においても、もっと人のつながりを築き、広げていこう。そう考えた人たちが推進するのが、「時間銀行」だ。それは地域住民同士や学校、職場などの仲間、基本的に近い場所にいる者同士が、自分のできることを生かし、お金抜きでサービスのやり取りをする仕組み。サービスのお礼は、「時間」で支払う。例えば、地域住民グループで「〇〇時間銀行」を作り、そこに各自が「英語を教える」、「散歩に付き合う」、「パソコンを修理する」など、自分ができるサービスを登録する。それぞれが「時間預金」を持ち、誰かに何かのサービスを頼んだら、それにかかった時間を相手に支払う。そうやって、皆が時間預金を使って、多方向的にサービスのやり取りをするわけだ。

 「世界中どこでも、1時間は1時間」。その事実に基づいて動く時間銀行は、お金の有る無しに関わらず、皆が互いに助け合うことで「持ちつ持たれつの関係」を築き、誰もが孤立せずに生きられる環境を築く。ふだんから信頼に基づく人のネットワークができあがっていれば、コロナ危機のような緊急事態においても、自然に助け合いが進むというわけだ。現実に、このパンデミック下では、時間銀行から生まれた助け合いが、人の生活と心を救っている。

 私たちは、社会でどんな立場にいる時でも、一人で生きているわけではなく、様々な人とともにある。そこに「信頼」とつながり=「連帯」があれば、どんな人も安心して暮らせる。逆に、性別や年齢、職業、所得、人種、社会が求める「能力」など、何かを基準に分けられ、分断されてきた人間は、他者とつながることや共感することが難しく、孤立したりしがちになる。その先にあるのは、不安と疎外感や孤独、あるいは他者に対する差別と利己主義だろう。危機に直面した時に必要な信頼と連帯を阻む、これらの意識は、多様性を無視した教育から生み出されてきた。競争と成長ばかりを追う政治と経済が求める「能力」に基づいて人を教育し、分断していく現代日本のような社会は、精神的に貧しく、生きづらい。逆に、様々な人たちが互いの存在を知り、認め合い、信頼を持って連帯できる社会は、危機に強く、真に豊かな未来を創る。

 人間の労働の多くが人工知能に置き換えられようとしている時代に、私たちの生の価値は、そのユニークな多様性とつながりが生み出す豊かさの中にこそある。多様性を楽しみ、つながりで生きる社会こそが、これから私たちが目指すべき社会の姿だ。

 2020年の今、分断と孤立化を超える思想について語ることには特別な難しさが生じてしまったかもしれない。パンデミックの発生により距離(distance)と隔離(quarentine)とが合言葉となり、分断と孤立化との単純な反対物であるところの「一体」や「集団」はむしろ、克服の対象であるかのように見なされるようになったからである。こうした流れの中でいくつかの変化が突然に希求され始めたことの気味わるさ――テレワークなどの柔軟な働き方はなぜ今まで許されてこなかったのか?――については一先ず置いておくとして、状況を冷静に見つめれば、当然のこととして次のような問いが現れてくるはずである。分断と孤立化は今日、どのような新しい現れ方をしているのか。「一体」や「集団」は、物理的な意味ではなく、社会的な意味において、本当に過ぎ去った規範となったのか。本発表では、ハンナ・アーレントの思想を手がかりに考えていきたい。

 全体主義について考察した思想家のアーレントによれば、分断と孤立化とは根の部分でつながっている。そして両者ともに、巧妙に作られたものである。分断は、イデオロギーの力を借りて行われる。ナチスの全体主義においては、周知のように人種主義が、そのイデオロギーであった。人種主義がもたらした帰結は、しかしながら、「支配人種」とされた人びとにおいてすら同時に孤立化を意味したとアーレントは主張する。なぜならイデオロギーを介した人と人との「つながり」というものは原理的に不可能であると、アーレントは考えていたからである。

 アーレントによれば、イデオロギー(ideology)が依拠するのは「論理の強制力」である。例えばある「人種」が「劣等」である、ゆえに彼らは排斥されなければならないという「論理」は、それと全く同一の「論理」を有する人びとをつないでいるかのように一見思える。しかしそこに実は、人的なつながりというものが全く存在しないということは明らかであるとアーレントは主張する。なぜならこれらの人びとが従っている「論理」とは、独居者としての私(わたし)に語りかけるものであり、他者を本来的に必要としないものだからである。アーレントの示した例によれば、「2+2=4」という「真理」が人びとをつなぐ原理とは決してなり得ないように、イデオロギーの「論理」は決して政治的なつながりを創出しない。また、ある人がその「論理」を何回述べてみたところで、その人がより政治的な存在として認められるわけでもない。アーレントの考えでは、ある人が政治的な存在となり、政治的な「現れ」を果たすことができるのは、異なる他者の存在を通じてのみである。イデオロギーはこの点において全く非政治的なのである。 ナチスの全体主義は、政治をイデオロギーあるいはその「強制力」に還元し、孤立していても、あるいは孤立することこそが政治的なあり方であるという錯覚を植えつけた。しかし、前述したように単一の声しか響かない場所では、政治はあり得ない。政治現象の根幹をなすのは、一致(unanimity)ではなく、合意(agreement)である。アーレントが後の著作『革命について』で力説したように、すべての人が同じように思考し、ただ同じことを述べるとき、そこには一致は存在するが、政治は存在しない。一方、人びとが異なる位置から思考し、意見を交わすとき、そこには合意とともに、政治の可能性が開かれる。合意は、「差異」や「複数性」とを前提とする概念であり、政治の現象は、これらのものと密接に関わっている。

 翻って今日の社会では、どのような分断と孤立化とが見られるだろうか。この国において言論の置かれた状況は深刻なものであろう。ワイドショーの過激化は、フリースピーチの影響が強いアメリカや日本の文脈をいったん離れ、人種差別的な言論や扇動を禁じる国際法の観点から見たときには、危険なレベルにまで達しているといえる。

 著名な民放キャスターの発言における嫌中・嫌韓や、「犯罪者」のバッシングが中心の事件報道、異なる民族に対する優越意識や、排外意識を焚き付けるようなコメントやまとめの数々には恐怖を感じる。アーレントはその政治思想において、世界(world)が人びとをつなぎとめると同時に分離してもいると述べ、人びとを集わせると同時に引き離すテーブルの比喩によってそれを表したが、上のような状況はまさに世界が遠景に退き、テーブルなしで人びとが集っている状態のように思われる。

 では希求すべきは世界の再興かとかといえば、事はそう簡単ではない。ここでアーレントに沿えば、画一主義(conformism)の問題に我々は直面する。画一主義とは、ある人が隣の人と全く同じ仕方で物を見ること、あるいは隣人のパースペクティブを自身のものとしてそっくりそのまま用いることである。画一主義が到来したとき、他者は消え、世界は消え、その人自身も政治的な意味においては消滅することになる。共通世界は、孤立(isolation)のみならず、画一主義によっても消失するとアーレントは述べていた。分断と孤立化とを回避しようとするベクトルが、もう1つの極として画一主義に走ってしまっては元も子もあるまい。今日の困難とは、一方での分断、孤立化と、他方での画一主義、集団主義とが渾然一体となって、人びとの行き場を塞いでいるところにあろう。

 こうしたベクトルのいずれとも区別される、共にあること(togetherness)とは、アーレントによればどのような状態であるか。それは世界という、「間にあるもの(inbetween)」によってつながれる状態である。この世界、あるいは「間にあるもの」は、いわば生身の人間を含むものではない。自己と他者、そして両者がそれについて語り、また働きかける物的な何かとの間の三角関係が、そこでは必然的に前提されている。今日深刻な差別の問題とは、それが we/they という集団的な二者関係に陥っており、間に介在物――法や政策、あるいは行為でもありうるがいずれにしても非人格的な何か――を立てることに失敗しているところにあると、アーレントを延長するならばいえるだろう。

 分断と孤立化とを克服することは、人びとが一つになるようなユートピアや、あらゆる対立の消滅を意味するのではあるまい。連帯は、ある種の「距離」そして「個」の領域の確保、またそこから生じてくるはずの差異や緊張とを意味するはずである。ところが我々の社会は、これらの事柄についてただ冷静に語ることすらできかねるような状況に陥っている。

 なおアーレントによれば、イデオロギーの種類は、それによる世界の喪失とは必ずしも関係がない。あらゆるイデオロギーは、常識のはるか彼方までその結論を追いつめて行ったときに、無世界的なものと化すとアーレントは考える。人種主義や共産主義だけとは限らないと、アーレントは著作の中で念を押しているのである。今日の世界を見渡すと、民主主義や自由主義などの主義や思想が一見ポジティブなものとして評価を受けている。しかし、病気や苦痛を持つ人に常に笑っているよう奨めるような類の「自由主義」あるいは「個人主義」は行き過ぎたそれであり、アーレントの指摘が当てはまり得る危険なレベルに到達しようとしている。また選挙によって作り出された「多数派」を絶対視するような「民主主義」は、独裁という古くて新しい問題を突きつけている。

第2日 2020年11月8日(日)

●個人研究発表
(10:00~11:30)

  *持ち時間はLタイプは一人60分、Sタイプは一人30分です

〇第1会場

リオタールの時間哲学――貨幣・歴史・想像力小泉空(大阪大学大学院人間科学研究科、Lタイプ)
シェリングの「アナーキズム」――「代補」としての国家と「不気味なもの」中村徳仁(京都大学人間・環境学研究科博士課程、Sタイプ)

 本発表の目的は、フランスの思想家ジャン=フランソワ・リオタールの時間哲学を、彼の二つの主著『リビドー経済』(1974)と『ポストモダンの条件』(1979)を主要テキストとして抜き出すことである。 リオタールは、オイルショックやニクソンショックなどにより、世界経済に大きな転換が起きた 70 年代に、『リビドー経済』という特異な経済哲学の書を出した。彼はここで、フロイト由来のタームを用いながら、いくらか当時の経済危機をアンビバレントに肯定するかのような分析を打ち出した。そして『リビドー経済』から 5 年後、リオタールは、彼の名を一躍有名にすることになる書『ポストモダンの条件』を出すことになる。ポスト産業社会における知の状況を主題としたこの本の中で、リオタールは、大きな物語(歴史)の終焉という名高い命題、差異に対する開かれとしての「正義」論(後に『文の抗争』(1984)に結実することとなる)を打ち出した。

 先行研究において、この二つの著作のあいだには断絶があるというのがいくらか通説となっている(例えばジェイムズ・ウィリアムズ、Toward a Postmodern Philosophy(1994))。なぜなら一方で『リビドー経済』が精神分析的なタームで覆われ、倫理的観点が希薄であるのに対して、『ポストモダンの条件』では精神分析的タームは消え去り、いかにして現代的倫理を打ち出すかという観点が存在しているからである。近年の『リビドー経済』への着目(例えばベンジャミン・ノイズ、Malign Velocities:Accelerationism and Capitalism(2014))においても、そこに後のリオタールの仕事にないラディカリズムを見るという視点が主流となっている。

 しかし本発表は、この二つの著作においては「時間」という問題系が一貫して追及されていると主張する。その理由は三つある。第一に『リビドー経済』でリオタールは、「貨幣」を長期的時間サイクルで流通する信用貨幣と短期的時間サイクルで流通する支払貨幣に分けているのだが、この区別は『ポストモダンの条件』における知識の区別、長期的なプロジェクトのための投資用知識と職をえるための支払い用知識の区別に対応しているということ。第二に『リビドー経済』でリオタールは、70 年代の経済状況を、自由主義が乗り越えたとしてきた重商主義の「回帰」とみなすのだが、この視点は、『ポストモダンの条件』における大きな物語の終焉という命題を先取りしているということ。第三に『リビドー経済』でリオタールは博打的な「投機」を肯定し、『ポストモダンの条件』では異質なものを結びつける「想像力」を肯定するのだが、そのどちらも「いま、ここ」における瞬発性という時間的観点で定義づけられているということ。以上、三つの理由から本発表は、『リビドー経済』と『ポストモダンの条件』を、時間哲学という主題からつなげることは可能だと主張する。

 これまでシェリングの哲学は、「ドイツ観念論」という言葉で一括りにされるフィヒテやヘーゲルと比べると、政治思想の文脈で論じられることが少なかった。しかし彼は、様々な著作のなかで断片的にではあるものの、法や政治にかんして少なからず言及している。本発表では、シェリングの築こうとした政治思想を再構成するための準備として、彼がそもそも「国家」をどのように捉えていたのかということに注目する。なかでも本発表が注目するのは、彼が国家を説明するにあたって用いた「代補(Supplement)」という言葉である。

 シェリングは主著の『超越論的観念論の体系』(1800 年)のなかで、いかなる政治共同体にも先立つ個人の自由を尊重し、国家とはそうした自由が最大限に発揮されるための「代補」の装置にすぎないと主張した。ここには旧秩序の先にある自由の勝利にたいする期待が描かれている。ところが、それから 10 年後の『シュトゥットガルト私講義』においては、フランス革命の失敗が指摘され、「国家は人類に宿る呪いの帰結である」として決して逃れられないものと説明されている。ハーバーマスは「唯物論への移行における弁証法的観念論」(『理論と実践』所収)のなかで、シェリングのこうした変化に反動化の契機を見てとり、シェリングが「アナーキズム的性格」を強めたと非難する。

 しかし、本発表ではむしろ、ハーバーマスの診断を別の角度から解釈する可能性を提示する。シェリングが一見政治変革を諦めたかにみえるのは、彼が絶えざる政治動乱のなかで、あらゆる秩序の根底にある「無底=無根拠(Ungrund)」の次元を発見したからであった。彼は、何度も打ち倒されては立ち現れる「国家」という存在の「不気味な」性質を看取していたのだ。国家は、自由を実現するための補助的な道具に過ぎないはずが、人びとはいつしかそれに依存せざるをえない。彼が 1800 年の時点で直観的に記した「代補」という言葉には、自由と国家のあいだにあるそうした関係が示唆されている。 後にフロイトがシェリングから引用した「不気味なもの(das Unheimliche)」とは、秘匿されるべき「秘密」が突如明るみになることを意味する。ここでの文脈にひきつければ、その秘匿されるべき「秘密」とは、国家が支配を正当化するための「根拠」を最初から有していない、つまり「始まり(arche)がない(an-)」という意味での「アナーキー」であるということだ。つまり、ハーバーマスが批判的に述べたはずの「アナーキズム的性格」は、その意図を超えて、シェリング国家論の核心を言い当てていたのである。

○第2会場

左翼排外主義としての香港デモ大西 広(慶應義塾大学、Lタイプ)【報告要旨】
アメリカ社会科学におけるG. ジンメルの初期受容――ジンメルの著作に対する同時代のアメリカにおける書評を中心に田村豪(神戸大学人文学研究科博士課程前期、Sタイプ)【報告要旨】

ラウンドテーブル
(12:30~13:30)

①「若手研究者」企画
担当:小谷英生(群馬大)

②気候危機にどう向き合うか
担当:植上一希(福岡大)、丸山啓史(京都教育大)、澤佳成(東京農工大)

●テーマ別分科会
(14:00~17:00)

○第1分科会「反新自由主義のフェミニズム――その現代的条件をさぐる」【分科会報告要旨】

ケアする人の政治的エンパワメントの重要性元橋利恵(大阪大)
現代のケアをいかに把握するか――新自由主義下のフェミニズムを考える蓑輪明子(名城大)
司会:小椋宗一郎(東海学院大)

○第2分科会「ヘーゲルと現代思想」【分科会報告要旨】

ヘーゲルと社会構築主義――バトラーのヘーゲル解釈と美しき魂をめぐって岡崎龍(一橋大)
『精神現象学』の「現象」性格 ――ヘーゲル哲学を通じたガブリエル新実在論の理論的・実践的射程の検討飯泉佑介(東京大)
司会:池田成一(岩手大)

○第3分科会「ディアスポラとナショナリズム―中東からの視点」【分科会報告要旨】

パレスチナ/イスラエル、交錯するナショナリズムとディアスポラ早尾貴紀(東京経済大)
シリアの悲劇から考えるディアスポラとナショナリズム岡崎弘樹(日本学術振興会特別研究員)
司会:高山智樹(北九州市立大)

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